太平洋戦争下の日本における敵性外国人の抑留

太平洋戦争中、日本に英米人は居なかったのでしょうか?
戦争が始まるまでは多くの英米人が日本で生活していました。その多くは開戦前に母国へ引き揚げましたが、様々な理由で日本に残った人たちもいました。日本に残った英米人はどのような待遇をうけたのか。それが気になり、調べたことを簡潔にまとめてみました。

開戦後も日本に留まった英米人たち

太平洋戦争開戦前、日独伊三国軍事同盟が締結された後、日本とイギリス、アメリカの間では緊張が高まりました。そこでイギリス、アメリカ両国は日本に在住する自国民に対して引き揚げ勧告を行います。それでも、2100人あまりの英米人は日本に滞留を続けました。日本人と結婚して所帯を持っていた人や、宣教師などが日本への滞在を続けたようです。太平洋戦争が始まると、これらの日本在住の英米人のうちの多くの人が、「敵性外国人」として日本の各地に設けられた抑留所に収容されたのです。

敵性外国人の抑留所での生活

敵国人抑留について調査した資料によると、抑留所は全国各地におよそ30施設が設けられたとのことです。

太平洋戦争が開戦した当初、抑留されたのはおもに18歳以上45歳までの青年男性でした。この開戦当初の抑留所の生活はあまり厳しい規制を受けるものではなかったようです。抑留されていた外国人の伝記では「大人の冬休みのキャンプのようだった」と記されており、外部からの差し入れを受けることもできたようです。

ところがミッドウェイ海戦で日本が破れ、戦局が悪化してくると敵性外国人に対する取り締まりが強化されてきます。抑留の対象は女性にも広がり、抑留される人たちが増えました。さらに抑留された外国人たちの待遇も厳しくなります。外部との接触を禁じられ、面会が許されるのは一か月に二回、家族や近親者のみ。外出や一時帰宅も禁止されます。

終戦が近づくにつれ、待遇は悪化していきます。食料は十分に与えられず、冬はストーブもない。収容された人の中には体重が80ポンド(およそ36キロ)減少した人も居たという証言が残っています。農作業などの単純な労働も課せられていたようです。

また、そのような劣悪な環境でストレスを受けた抑留者たちの人間関係も悪くなっていったようです。横浜で抑留されていたイギリス人の青年シディングハム・イーンド・デュアは当時の抑留所での生活を日記に付け続ていました。その日記には満足に与えられない食事への不満や、気の合わない抑留者への不満などが書き記されています。その日記は戦後、彼の親族の手でまとめられ「英国人青年の抑留日記:戦時下日本の敵国人抑留所」というタイトルで出版されました。

抑留を受けなかった人たちの暮らし

また、女性や子供、老人の中には抑留されることなく自宅で生活することを許され続けた人たちもいました。しかし、その自宅にも警察の監視の目が向けられ、自由は大きく奪われていたようです。また、日本人とは明らかに容姿が異なることから、町での生活には困難が付きまとったであろうことは想像に難くありません。

開戦までは親しい隣人であったはずの彼らが突然「敵性外国人」と呼ばれるようになった。彼らと交友のあった日本人たちはそのことをどう受け止めたのだろうか。昨日まで友人だった彼らを「敵」と呼べたのか。そんなことに思いを巡らせた私は「瓦礫の下の友情」という脚本を書きました。

戦時下の在日アメリカ人を主人公にした「瓦礫の下の友情」

(あらすじ)
太平洋戦争開戦当時、日本国内にはアメリカ人やイギリス人などの「敵性外国人」が2100人あまり在住していた。これら外国人のうち男性の多くは抑留所に拘束され、その家族は警察に監視される生活を強いられた。
ジョディは横浜生まれ横浜育ちのアメリカ人。敵性外国人として警察に監視されながら生活する日々を送っている。1945年5月29日、横浜は大規模な空襲に見舞われる。ジョディは友人の敏子と共に煙と炎が渦巻く町の中を逃げ惑う。そして二人は、焼け落ちていく建物へヨロヨロと歩み寄る老婆に出会う。

ジョディと敏子の空襲体験を通して、敵とは何かを考える物語です。

「瓦礫の下の友情」の脚本は、こちらのページで一部を試読できます。ぜひお読みください。