視覚障害者の戦争体験を題材にした脚本「戦火の杖音」

太平洋戦争期、日本はあらゆる国民に戦時協力を強いていた。そして国の求める協力ができない者にはさまざまな悪いレッテルが貼られた。身体に障害を抱える人々はそんな時代をどのように生きていたのだろう。そんな疑問から生まれた物語が「戦火の杖音」です。

視覚障害を持ちながらも防空監視に立った人がいた

戦時中、視覚障害をもつ人たちはどんな暮らしをしていたのだろう。そのことが気になった私は視覚障害者の戦争体験について調べ始めました。そして分かったことは、目の見えない人たちが公然と差別され、「役に立たぬ人間」のように批判されていたという事実でした。
視覚に障害を持つ人たちは兵役に就くことはできず、軍需工場で働くこともままなりませんでした。そのために「穀つぶし」と揶揄され、世間からは冷たい目を向けられることもあったようです。
そんな視覚障害を持つ人たちにも戦時協力は求められました。銃を持って戦うことができない彼らは按摩士として、または楽器演奏による慰安隊などとして戦地に赴いたそうです。

そうした歴史を伝える文献をいろいろ読んでいたとき、戦争当時のある新聞記事に目が留まりました。
その記事には、能登の防空監視に視覚障害者が協力していることが書かれていました。防空監視とは、防空監視哨という物見台に立って敵の空襲をいち早く発見するという任務です。防空監視哨は大日本帝国陸軍の施設でしたが、監視の実務を担っていたのは在郷軍人や消防組員、青年団員、学生といった民間人だったようです。
そして先述の新聞記事が伝えていたのは、その防空監視に視覚障害を持つ人が参加し、耳で敵機の襲来を察知しようとしていたということでした。その方が実際に敵機の襲来を聞き取れたのかどうかは記事からは分かりませんでした。ただ、その記事を読んだ私は、防空監視に立ったその方の気持ちはどのようなものだったのだろうと思いを巡らせました。
目が見えないことで普段は冷遇されていたのではないだろうか。差別的な目で見られる日々の中で、自分にできる戦時協力は何なのかを必死に考えて、耳でなら役に立てるかもしれないと考えた。新聞記事では「目が見えないのにお国のために働く見上げた心がけ」というように礼賛する言葉だけが並び、防空監視に立つその方の本心は見えてきません。自分のように視覚障害を持つ者もお国のために役に立つのだと認めてもらいたい一心だったのでしょうか。私はこの記事がとても気になりました。

「お国のために」と必死に生きた視覚障害者を描いた脚本「戦火の杖音」

「穀つぶし」と呼ばれ、子供たちからも泥団子を投げつけらる日々を送る視覚障害者が、なんとかお国のために働きたいと考え、防空監視に立つ。そして戦後、その当時のことを思い出し、なぜ自分はそれほどまでに苦しまなければならなかったのかと思いを巡らせる。
そういう話を書いてみようと考え、構想を膨らませて書いた脚本が「戦火の杖音」です。

視覚障害者の和子は戦時協力ができない自分をもどかしく思っていた。
戦局の悪化から勤め先の盲学校が休校になり、自分の存在価値を見失いかけていた和子は、自分と同じように視覚障害を持つ人が防空監視哨に立ち、耳を頼りに敵機の襲来を監視しているという新聞記事を読む。
和子は自分も防空監視に貢献したいと考え、「敵機爆音集」のレコードを聴き始める。

差別を受けながらも必死になって自分の存在価値を求める女性の物語です。
「戦火の杖音」は、脚本紹介ページでその一部が試読できます。興味のある方はぜひご覧ください。