市電北野線 - 戦後まで走り続けた京都最古の路面電車

京都市電北野線は、明治時代から昭和36年まで、京都の町の足として活躍した京都最古の路面電車です。
この記事では、北野線の歴史、北野線が走った沿線の町を紹介します。
紹介役は北野線を題材にした朗読劇脚本「チンチン電車の看板娘」の登場人物、つぐ子と耕介の高等科学生コンビです。
それではここからのお話は二人に譲ります。つぐ子ちゃん、耕介君、よろしくお願いします。

京都市電と北野線の歴史

京都市電の始まり

つぐ子「みなさん、こんにちは。倉本つぐ子です」
耕介「野島耕介です」
つぐ子「ここからは私たちが、京都を走った路面電車『北野線』のことを話していきます」
耕介「最後までどうぞお付き合いください」

つぐ子「ええ……、まずは路面電車のお話です。日本で初めて路面電車が走ったのは、私たちが住むここ、京都です」
耕介「開業は明治28年」
つぐ子「明治28年は京都が平安遷都千百年を迎えた記念の年でした。その記念の年に京都電気鉄道『京電』が誕生します」
耕介「京電の創設者は高木文平さん」
つぐ子「そして明治45年には京都市営の路面電車『市電』が開業します」
耕介「市電開業を後押ししたのは二代目京都市長の西郷菊次郎。そうです。あの西郷隆盛の息子さん」
つぐ子「大正7年、京電は京都市電に買収され、京都の路面電車は市電に一本化されました」
耕介「ああ、さようなら京都電気鉄道。ああ、さようなら文明開化」
つぐ子「何、それ」
耕介「ええから、流せ、流せ」
つぐ子「……はい。路面電車が京都市電に一本化され、京電時代の車両は市電の車両に取り換えられていきました」
耕介「でも一本だけ、京電時代の車両が走り続けた路線が有りました。それが」
つぐ子「北野線です」

最古の市電-「チンチン電車」北野線

つぐ子「北野線は京都の町を南北に縦断する路線です」
耕介「まずは烏丸塩小路にある京都駅を出発して」
つぐ子「西洞院通りを北へ七条、五条、四条通まで上っていくと」
耕介「四条通からは堀川通を北上して中立売通まで」
つぐ子「中立売通を西へ抜けて終点は一条通の北野天満宮、一の鳥居」
耕介「京都駅から一条通まで、京都の町の中心を縦断する北野線は京都市民の足として活躍していました」
つぐ子「京電の車両を受け継いだ北野線。運転士が鳴らす警笛ベルの音が特徴的です」
耕介「その音にちなんで、僕たちは北野線のことをチンチン電車と呼んでいました」

狭軌路線の電車 - N電

つぐ子「さて、京電時代の車両のまま走り続けた北野線。他の市電の車両とは何が違ったのでしょう。それは車輪の軌間(左右の車輪間の幅)です」
耕介「日本初の路面電車『京電』の車両の軌間は1,067mm。それに対して京都市電の軌間は1,435mm」
つぐ子「つまり京電の車両は市電の車両よりも軌間が狭く、車両がこじんまりしていました」
耕介「この軌間の違いから京電の車両は狭軌電車、市電の車両は広軌電車と呼ばれています」
つぐ子「京電が市電に買収された後、狭軌の線路は広軌の線路に置き換えられていきました」
耕介「でも北野線だけは狭軌線路を使い続けた」
つぐ子「だから北野線と市電の両方が走っていた四条西洞院から四条堀川の区間には、狭軌電車と広軌電車のどちらにも対応できるように線路が3本引かれていたんです」
耕介「名付けて三線式軌道」
つぐ子「狭軌電車の北野線は、狭軌を意味する英語(Narrow gauge)の頭文字を取って『N電』の愛称で親しまれました」

「まいたまいた」のブレーキ

つぐ子「北野線を走ったN電の特徴のひとつが手回しのブレーキです」
耕介「大きな輪っか状のハンドルを手でグルグルと回してブレーキを調節します」
つぐ子「グルグル回して巻き取るブレーキは当時こう呼ばれていました」
耕介「まいたまいたのブレーキ」
つぐ子「この『まいたまいたのブレーキ』。操作するのは結構危なかったみたいです」
耕介「ブレーキを回すとき、把手を胸に打ち付けて怪我をすることもあったとか」
つぐ子「N電を操縦するには十分な訓練が必要だったようです」

戦時中の北野線

つぐ子「北野線は明治28年に一部路線が開通し、明治の末には京都駅から北野天満宮までの路線がつながります。そして昭和36年(1961年)まで現役車両として走り続けました」
耕介「朗読劇『チンチン電車の看板娘』の舞台は昭和20年(1945年)の京都。この年は太平洋戦争の最後の年です」
つぐ子「劇中、国民学校高等科の学生だった私は勤労動員で北野線の車掌を勤めます」
耕介「戦争中の時代の北野線の話は、つぐ子にまかせるのがエエよな」
つぐ子「うん。わかった」

女性運転士の活躍

つぐ子
「昭和20年頃の電車には乗務員として車掌と運転士の二人が乗っていました。運転士の仕事はもちろん電車を操縦すること。車掌の仕事はお客さんから運賃を受け取ったり、停車駅の案内をすることでした。
車掌は男性だけでなく女性も勤めていました。昭和の初め頃、電車の車掌やバスの添乗員の仕事は女性にとって憧れの仕事でした。今で言えば飛行機のCAさんのような仕事だったのだと思います。こういう仕事をする女性は『バスガール』『電車ガール』と呼ばれていました。
でも運転士は男性の仕事でした。さっきの話に出てきた『まいたまいたのブレーキ』のように、電車の操縦にはいろいろな知識と訓練が必要で、女性はその訓練を受けられなかったのです。
ところが昭和16年頃から、運転士の仕事を女性が賄わなければならないことになりました。昭和16年は太平洋戦争が始まった年です。この頃、日本のたくさんの若い男の人たちが兵隊になって戦地へ行っていました。だから、それまで男性が勤めてきたいろいろな仕事で人手不足が起こっていたのです。電車の運転士も足りなくなっていました。そこで、それまで車掌を勤めていた女性たちを対象に、運転士を募集したのです。でも、この募集に応募する女性は一人も居ませんでした。それで数名の女性車掌が強制的に選抜されて、運転士の訓練を受けることになりました。
運転の訓練は女性にはかなり大変だったようです。特に『まいたまいたのブレーキ』。このブレーキの操作は力も必要で、しかも巻き取る操作をするときに胸を怪我する心配もありました。女性たちは剣道の胴を付けて訓練を受けていたそうです」

溢れるほどの乗客

耕介
「太平洋戦争中の市電は京都の町の人の足として大活躍していました。北野線も大勢の人に利用されました。通勤通学の時間帯では車両内に乗りきれないほど、お客さんで溢れることも。北野線の車両前面には通行人と衝突するのを防ぐための救助網が付いていました。車室が満員になると、溢れたお客さんはこの救助網の上に乗っていたこともありました」

建物疎開と空襲

つぐ子
「北野線の沿線ではいくつかの戦争の爪痕が残されました。ひとつは建物疎開の跡。建物疎開というのは、皇居や役所のように日本にとって大事な場所を空襲で焼かれないように、その周辺の建物を強制的に取り壊した措置のことです。北野線が走った沿線の五条通、御池通、堀川通では大規模な建物疎開が実施されました。そして、西陣では空襲の被害がありました。終戦前の北野線は、戦争で傷ついた京都の町の中を走っていたのです」

戦後の北野線

耕介
「昭和20年(1945年)8月、戦争が終わりました。終戦後、京都にも連合国の進駐軍がやってきました。この頃、進駐軍の指導で、町にある標識などで英語が使われるようになりました。電車の表示板も英語で表示されていました」
つぐ子
「終戦の年のことは、私にとっても忘れられない経験でした。この年の私たちの体験を描いた物語が朗読劇『チンチン電車の看板娘』です。朗読劇の脚本の一部は、このブログの最後に紹介しています。よかったら読んでみて下さい」(脚本試読のリンクはこちら

北野線最後の日

つぐ子「戦後も京都の町を走り続けた北野線は、昭和36年(1961年)8月に廃止されました」
耕介「北野線最後の日には、花で飾られた車両が多くの人に見守られながら京都の町を走りました」
つぐ子「廃止された北野線ですが、その車両は今でも見ることができます」
耕介「一か所は京都。烏丸五条を上ったところにある北坂ビルディング。道に面したショーウィンドウに北野線の車両が展示されています」
つぐ子「もう一か所は愛知県犬山市の博物館明治村です。明治村では北野線の車両が今でも走っています。機会が有れば、ぜひ現地に足を運んで北野線を見て下さい」

北野線が走った町並み

つぐ子「ここまでは北野線の歴史を紹介してきました」
耕介「ここからは、北野線が走った沿線の町を紹介します」

西洞院通 / 仏具屋が並ぶ細い通り

つぐ子「京都駅を出発した北野線は、まず西洞院通に入ってそこを北へ上っていきます」
耕介「西洞院通の七条から六条あたりまでは、ちょうど東本願寺と西本願寺に挟まれた場所になります。だから、このあたりには仏具店がたくさん並んでいます」
つぐ子「西洞院通の道幅はあまり広くありません。その狭い道路に電車の路線と自動車の車線が走っていました。北野線の線路は西洞院通の西の端にあって、家の軒先ぎりぎりのところを走っていました」
耕介「古くからの仏具屋さんが並ぶ西洞院通に面した家には、京都の伝統的な町家がたくさん残っています」
つぐ子「京町屋の軒には『ばったり床几』と呼ばれる折り畳み式の縁台が有ります。チンチンと音を立てて電車が近づいてくると、家の前で涼んでいた人は床几を畳んで電車の道を開けたそうです」

3つの天神さん

つぐ子「北野線の沿線には3つの『天神さん』が在ります」
耕介「ひとつは終点の北野天満宮。それから菅大臣神社。もうひとつは五条天神宮」
つぐ子「菅大臣神社と五条天神宮は西洞院通の五条から四条までの間にあります。京都駅から出発した北野線が最初に横切るのは五条天神宮です」
耕介「天神さんといえば菅原道真ゆかりの神社だと思うかもしれませんが、五条天神宮はそうではありません」
つぐ子「京都に都が造られたとき、天神(あまつかみ)をお祀りしたのが始まりの神社だそうで、万病を治す神様として親しまれています」
耕介「『天使の宮』とも呼ばれます。この天使の宮という呼び名にちなむ地名が、五条天神宮の在る町の名前に残っています」
つぐ子「天使突抜(てんしつきぬき)町。五条天神宮の境内が今よりも広かった時代に、その境内を突き抜いてできた町というのが町名の由来だとか」
耕介「二つ目の天神さんは『菅大臣神社』。西洞院仏光寺に在ります」
つぐ子「こちらは菅原道真公ゆかりの神社で、道真公の邸が有ったところだと伝えられています。また、道真公が大宰府に流される前に詠んだ歌『東風吹かば 匂ひをこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ』は、この菅大臣神社の地で詠んだと言われているそうです」
耕介「そして北野線の終点は北野天満宮」
つぐ子「大宰府に流された菅原道真公の霊を鎮めるために造られた、天神さんの中でも一番有名な神社。そんなに説明しなくても大丈夫ですよね。北野線の終点は北野天満宮の一の鳥居に在りました」

堀川 / 染物の町を流れる虹色の川

耕介「西洞院通を北上した北野線は四条通で西へと曲がり、堀川通へ入ります」
つぐ子「四条から中立売通までは堀川沿いを走ります。この堀川沿いは染物の町です」
耕介「現在の堀川は土手がコンクリートで整備された小川になっています。でも僕らが暮らしていた昭和の初めまでは舗装のされていないきれいな川が流れいてました」
つぐ子「染物屋の町を流れる堀川は、ずっと昔には染物を洗い流すために使われていました。近代に入ると、染めは染物屋の中で作業するようになり、作業場で使われた水が堀川に流されるようになりました。この頃の堀川の水は、染物屋から流される染料の色に染まっていたそうです」
耕介「染料の色によって赤、黄、青と色が変わるので、『虹色の川』と呼ばれていたとか」
つぐ子「北野線は堀川の東の小道、東堀川通を走っていました。今、京都の幹線道路である堀川通が走る堀川の西側には昔は商店街が在って、堀川京極と呼ばれて賑わっていました」
耕介「この堀川の商店街は昭和20年(1945年)に建物疎開によって取り壊されました。そうしてできた広大な空き地が今の堀川通になったのです」

中立売橋 / 昔はターンテーブルを使っていた急カーブ

耕介「堀川通を北へ進んだ北野線は中立売通で堀川を渡り西へ向かいます」
つぐ子「この堀川中立売には当初はターンテーブルが設けられていました。電車はターンテーブルに載って90度回転し、中立売橋を渡ります」
耕介「ターンテーブルは大正時代くらいまでは在ったようです。でも僕らが暮らしていた昭和20年頃にはもう取り払われていて、急角度のカーブ路線が敷かれていました」
つぐ子「北野線はその急カーブを曲がって中立売通の商店街へ入っていきます。堀川中立売の川の堤には、北野線が渡った中立売橋の橋の一部が今でも残っています」

北野一条通商店街

耕介「中立売通から一条通にかけては商店街の中を走ります」
つぐ子「一条商店街の道幅は狭くて、店先スレスレに電車が走っていたようです」
耕介「終点前の下森には電車の整備場も在りました」
つぐ子「一条商店街は北野線が走った町として、今でも町の看板にN電のイメージを使っています」

下森 / 終点の「一の鳥居」

つぐ子「京都駅を出発した北野線の終点は北野天満宮です」
耕介「今出川通の南側、現在は西陣警察署となっている辺りに、昔は北野天満宮の一の鳥居が在りました」
つぐ子「そこが北野線の終点でした」
耕介「北野線はこの北野天満宮で、京福電車北野線と連絡していました」
つぐ子「現在、この場所には北野線が走っていたことを示す小さな石碑が立っています」

つぐ子「ここまで、京都の市電北野線のことを話してきました。もし北野線のことに興味を持ってもらえたら、京都に来られた時には北野線が走った沿線を散策してみてはどうでしょうか」
耕介「……」
つぐ子「耕介、あんたも何か挨拶しいな」
耕介「ええ、ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました」
つぐ子「それだけ」
耕介「せやかて、何言うてエエか分からへん」
つぐ子「まあ、ええわ」
耕介「脚本『チンチン電車の看板娘』も、もし興味が湧いたらぜひ読んでみて下さい」
つぐ子「急に宣伝やな」
耕介「よろしくお願いします!」
つぐ子「それではみなさん、ここまでどうもありがとうございました」
耕介「このあとは、脚本の紹介です」

北野線を題材にした脚本「チンチン電車の看板娘」

つぐ子ちゃん、耕介君、ありがとう。
さて、ここからは脚本の作者である私、津島次温(つしま つぐはる)からのご案内です。
「チンチン電車の看板娘」は、北野線が走った頃の京都を舞台にした朗読劇脚本です。ここではそのストーリーを簡単に紹介します。

ストーリー

太平洋戦争末期、若い男性が徴兵されたことで国内の働き手は不足していました。そんな中、勤労動員の号令の下、女性や学生たちはさまざまな仕事に就きます。
サキ子と次子の姉妹は、京都の路面電車北野線の運転士と車掌の仕事を任されます。妹の次子は気の強い軍国少女。「お国のために」と張り切って車掌を勤るのですが、毎朝の天神さん巡りを日課とする女性や、お経を唱えながら乗車する奇妙な男など、朝の市電に乗る面々との交流を通して戦争を続けることに疑問を感じ始めます。

京都北野線沿線を舞台に、若者を戦地へ送り出した銃後の人々の苦悩を描いた物語です。

脚本を一部試読できます

脚本の一部を試読できます。興味のある方はこちらのリンクからpdfを開いてください。

 

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このwebサイトの目的は、私の脚本をできるだけたくさんの人に知ってもらい、「自分たちの舞台やオーディオドラマに使ってみたい」「とりあえず読んでみたい」という方が居れば、その脚本を提供することです。
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作者: 津島次温(つしま つぐはる)


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