青い目の人形―昭和初期に贈られた友情人形を題材に脚本を書く
昭和初期、アメリカから日本へ友情の証として贈られた人形たちが居ました。子供たちに大切にされていたその青い目の人形たちは、太平洋戦争の開戦によって敵性人形として処分されることになるのです。
私は、アメリカから贈られたこの小さな親善大使たちの数奇な運命を題材にした脚本を書きました。この脚本の背景を紹介していきます。
Contents
大正末期~昭和初期のアメリカでの反日感情
大正末期から昭和初期、アメリカでは日系移民に対する差別意識が高まっていました。経済不況により大勢のアメリカ人が職を失っていく一方で、安い賃金でも真面目に働く日系移民はいろいろな職場で重宝されていました。このことがアメリカ人の反日感情を呼び起こします。
そんな中、1924年にアメリカ議会でジョンソン=リード法(1924年移民法)が施行されます。これはヨーロッパやアジアからの移民の入国を厳しく制限するものでした。この移民法の施行によって、日本でも反米感情が強くなっていったのです。
日米の未来を子供たちに託す
このように日米両国の国民感情が険悪になることに心を痛めたアメリカ人が居ました。宣教師のシドニー・ギューリック博士です。
ギューリック博士は考えます。「一度生まれた嫌悪の感情を消すのは難しい。特に大人たちの間で国家間の友情を築くのは困難だ。だから、国と国との親交を深めることができるのはきっと子供たちだ」
そしてギューリック博士はアメリカと日本の子供たちの間に友情を育む取り組みを模索し始めます。両国の関係性が悪くなっている中で子供たち自身が国を渡って交流するような事業は受け入れられるはずもありません。そこで思いついたのが、アメリカから日本の子供たちへ友情の証の人形を届ける事業でした。
青い目の小さな親善大使
ギューリック博士は日米の政財界に働きかけ、「友情人形」を日本へ届ける事業の実現に奔走します。幼稚な発想だと一蹴されることもあったようでした。しかし諦めず働きかけを続けることで事業は実現へと向かい始めます。
アメリカでは子供たちが人形の洋服の制作を手伝い、準備が進んでいきました。一方の日本側ではギューリック博士と親交のあった渋沢栄一の尽力により、国を挙げて人形を受け入れる体制が整っていったのです。
1927年、こうして用意された12,000体を超える「青い目の人形」が、日本に届けられました。届けられた人形は小さな子供の姿をしていて、青い目にブロンドの髪が特徴でした。横にすると目を閉じ、抱っこして起こすと目を開きます。小さな赤ちゃんのような声を出す仕掛けもされていたといいます。
人形たちは一人一人に名前が付けられ、パスポートも発行されていました。まさに「青い目の小さな親善大使」だったのです。
人形たちは日本全国の小学校に寄贈され、子供たちは喜んでいたようです。
太平洋戦争―親善大使は敵国人形へ
ところが1941年、真珠湾攻撃を皮切りとして太平洋戦争が始まり、日本とアメリカははっきりと敵対する関係になってしまいました。日本国内ではアメリカ製の品物はことごとく排除されていきます。映画、レコード、本などはその代表格です。そして、その矛先は青い目の人形にも向けられました。青い目の人形は敵性人形とみなされ、次々と処分されていきました。竹やりの訓練の的にされたり、火であぶられるなど、その処分の仕方は過酷でした。
親善大使としてやってきた人形たちは、日米の開戦によって敵国人形となってしまったのです。
生き残った人形たち
12,000体以上贈られた青い目の人形のほとんどが、戦争によって処分されました。しかし、わずかな数ですが、終戦後まで無事に保護された人形も有ったのです。
戦時中、人形の処分を命じられた学校の先生たちの中には、「人形に罪はない」と考える人も少なからず居ました。そうした人たちが人形を匿ったのです。戦時中の学校には天皇陛下を祀った奉安殿と呼ばれる祠がありました。この奉安殿の中や、あるいは校舎の屋根裏や倉庫の奥など、人が探さないような場所へ人形たちは隠されたのです。そして、終戦を迎えます。
青い目の人形はアメリカから贈られた人形です。それらの処分についての記録は残されることなく、時の流れとともに人々の記憶からも薄れていきました。
ところが平成に入ったころから、青い目の人形が発見され始めました。戦前から使われてきた古い学校の校舎の建て替えが始まった頃でした。校舎の奥に隠されていた人形たちが発見され始めたのです。発見された人形たちは、その由来を知った先生や学校関係者たちによって保護されるようになりました。現在では300体ほどの青い目の人形が発見され、人形を保護するネットワークも生まれています。
戦争によって一度は敵性人形とみなされた人形たち。戦乱の時代の中でも国境を越えた友情を信じた人たちの手によって保護された人形たちは今、親善大使としての姿を取り戻して大切に保管されています。

京都市の小学校に保存されている青い目の人形 アン
「国と国との友情」をテーマに書いた脚本「青い目のドロシー」
私は、この青い目の人形を題材とした朗読劇脚本「青い目のドロシー」を執筆しました。
舞台は太平洋戦争期の国民学校。主人公ハルの勤める国民学校にも青い目の人形ドロシーが有りました。ある日、ハルの同僚教員のキチは、そのドロシーを処分すると切り出します。それも子供たちの手で破壊させるというのです。ハルはキチの言葉に反発します。なぜならドロシーはハルが教員を目指すきっかけとなった人形だったからです。
処分か。保存か。青い目の人形の扱いをめぐって、さまざまな思いを巡らせる国民学校教員たちの物語です。
「青い目のドロシー」は脚本紹介ページで一部を試読できます。 興味のある方はぜひご覧ください。
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作者: 津島次温(つしま つぐはる)
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